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もう何年も前のことだから、個人的な供養の意味合いで書く。


当時「Lemon」を初めて聴いて(当時、ほとんど日本の音楽で起こっていることを知らなかった)ふと、「これは単に邦ロックとアンビエントR&Bをマッシュアップしたものじゃないか」と思って好奇心からそのことについて考え始めた。今思えば彼の曲で起こっていることはそんなに単純ではないのだが、美学的にはそこまで致命的に間違っていないと思う。

その頃、Frank Oceanがサウスのトラップと60年代終盤のアシッド・バロックとを、薬物で加速した殆ど憂鬱さに近い恍惚の音楽として同一軸に捉える方法──彼がAndre 3000やPharrellから直接受け継いだあの美学に夢中になっていた。Ty Dolla $ign、Rae Sremmurd、Young Thug……。2018年にひたすら聴いていたのはそういう音楽だった。Frank Ocean「Biking」を毎日歌っているうちに少し異化した進行のヴァリエーションを思いついて、それを頭拍のみのリズム──ブルースギターの最小単位へと削った。The BeatlesのHelter Skelter Take 2の、スネアとキックのみをドットのように頭拍に置く究極にミニマルなリズム。

14才の時に聴いていたRADWIMPSの「狭心症」を急に思い出して、そのメロディラインを引喩として使うことにした。10年近く一度も耳にしていない忘れていた歌を、「Lemon」を通して思いだしたのだった。2011年2月にリリースされたあの曲は恐らくその、リズムを最小単位にまで剥ぎ取られたデモ段階の12分間のジャム──Anthology 2で初めて一般に公開された─を雛形にしている。完成バージョンにはないスラップバック・エコーのかかった「Tell me the answer, answer, answer, answer, answer......」という執拗な問いかけと、「僕は僕を幸せにする機能で いっぱい いっぱい いっぱい いっぱい……」というリフレインの間に、そのインスピレーションの萌芽を嗅ぎ取ることは決して不自然ではないだろう。14才の時、あの曲を聴いて即座にそう思ったことを覚えている。明らかに反時代的な、ダークでサイケデリックな響きの曲だったから。そして3月9日に「絶対絶命」がリリースされて、その2日後にありとあらゆるものが様変わりしてしまったこと、それはこのバンドがキャリアで一度しか手を付けなかった異様な迫力の身体的なアブジェクシオンへの接近と奇妙に同期していたことを今でもはっきり記憶している。

邦ロックは、そうした誠実な批評を受ける機会に恵まれない不遇のアートだと今でも思う。
希有ないくつかの例外を除けばそれは全くもって妥当なのだが。

14才の時、テスト期間の終わり、昼前に下校して友達に貸していたぼろぼろのギターを引き取りに行った。友達が住んでいる空っぽの、丘の上にある巨大なベッドタウンからは海が見えた。なぜそうしようと思ったのかはわからない。誰もいない公園の大きな遊具のてっぺんでそのギターをケースから出して空に掲げて、それを思いっきり振り下ろしてみた。ギターはもっと傷だらけになった。そこから見える景色は異様に静かで、本当に誰もいなかった。帰り道にバスに乗っていると、おばさんたちは「地震が大変なことに…」と話をしていた。ガラケーしか持っていない俺は、なぜクライストチャーチの地震の話を今頃しているのだろう、と思った。その日から日本は別の世界になった。

歌詞はそうしたものを指し示す。それは「自分が思いたいと思っている」イメージの話ではない。実際に思ったことを書く。個人的な経験のクロニクルから引用しているようなものだから、それは普通の引用や引喩と違って原型を特定できない。でも、伝わる。特定の感覚と固く結びついている外来のイメージを勝手に使う。その場合にも動機は特定できない。自分にしかわからない理由でそうするからだ。でも、伝わる。

実際に思う?

ペソアは言った。「一流の詩人は自分が実際に感じることを言い、二流の詩人は自分が感じようと思ったことを言い、三流の詩人は自分が感じねばならぬと思い込んでいることを言う。」16才の時にそう読んでからずっと、他人の詩も自分の詩もそれを指針に判断してきた。

対象そのものではなくその周縁を指さし続けることもできる。

「空っぽの聖堂」は、自分が生まれ育った場所で通っていた幼稚園の大聖堂から聖母像が撤去されていた時のことを指している。聖像のない教会。それはものすごく奇妙な光景で、でも世界の有り様として納得させるなにかがあった。中学〜高校生の時、いつも学校に行くふりをして制服のまま色んなところへ逃げた。その聖堂に行くたびに、聖母像に跪いて目を瞑って祈った。何に?わからない。神を信じていたのかと言われれば、それほどまでに当時の自分の心象からかけ離れた表現も無いだろうと思う。きっと、自分の幼少期に向かって祈っていたのだ。

ギターは、10代の時からずっと愛しているJohn Martynへのオマージュのつもりで弾いた。エフェクトとしてのテープエコーではなく、むしろギターを通してテープエコーを演奏するようなあのやり方を。ボリューム・ペダルなのか逆再生なのかわからない、時間と空間の制約を無視したようなあの音を。質量と奥行きを持ったハーモニーの波状を。……ケヴィン・シールズもそうではないだろうか?彼はギターを弾かない。彼はAlesis Midiverbを演奏していたのだ。ヘンドリクスはギターを弾かない。彼はユニ・ヴァイヴとマーシャルのアンプリファーを演奏していた。あのきらきらした細長い性的なトレモロ・アームを通して。

サビに入ってゆく一小節、逆再生された2つの連続するコードにかかっているテープエコーが0になる。完全にドライでモノの音像が定位の中央で半音ずつルートを下降しながらこちら側に限界まで近づいてきた直後、一拍の無音に重なった「きみは、」という歌詞の準備動作をトリガーにステレオの両極でディストーションのかかったギターが炸裂する。それはナイーブで単純な技法だが視点の移動にも似た極端で激しい印象をもたらす。「一気に視界が開ける」カメラの動作を音像に翻訳することができる。

10代の時に書いた「僕は窓が好きだった/それは空間を引き裂く傷口だった」という下手な詩を自分で引用している。窓は、閉じられた空間の傷口だ。キム・ゴードンは「わななく唇は開いた傷口」と歌った。傷。そこからなら外に出られる。傷があることによって、再生することができる。

ブレイクダウンではいわゆる'The Big Beat'をハーフタイムにした、クラシックな90sヒップホップの素朴なリズムパターンにスイッチする。この部分の歌詞は、制作期間中にあった「暁闇」の準備稿、最終稿とは異なるプロットラインだったそれと、そこにあったセリフから引用を含めて強くインスピレーションを借りている。そもそもこの曲じたい「暁闇」のために書かれたもので、劇中にはその断片─ステムのみが使われることとなった。この場を借りて心から感謝の意を表したい。ここで歌われている「きみ」とは紛れもなくユウカのことだが、準備稿とも異なるナラティブを通して、自分がユウカに向かって手を伸ばしている。「二人でここから逃げ出そう」と。ユウカというキャラクターに対してではなく、ユウカ自身に対して。服をすべて脱ぎ捨てて街を走ること=ストリーキングのイメージは、世界への激しい不信と軽蔑を露わにして隠さない。思春期の性行為の記憶。ふたりの裸の肌を飛沫のような火花が焦がす。無人の渋谷という、不可能な光景。

自ら成就する預言としての夢。

『僕には見える 廃墟となったロックフェラーセンターの大峡谷の森でヘラジカを追いかける君の姿が 君は自分の寿命より長持ちする皮ジャンを着て、シアーズ・タワーを覆う太いツタを這い登るだろう 見下ろすと、穀物を砕く人間がいる 無人となったハイウェイに 鹿肉の切り身が並べられている』

エンヴェロープ・フィルターのかかったノコギリ波のシンセサイザーが初めて這入ってくる。それは歪んだギターの、あの潰れた波形と同じ役割を果たしてくれる。ギターの否定。ロックへの深い幻滅と軽蔑。倒れるギターは、折れた男性器。以前にも使ったラカン的な象徴体系を今一度ここに駄目押しとして挿入している。

コカ・コーラというアメリカの黒い液体の金。

ディーダロスとイカロスのイメージは使い古されたクリシェだから説明は要らないだろう。鬼頭莫宏の「なるたる」で、佐倉明は「結局……一回も……飛べなかったなぁ」と言った。「飛ぶ」ことはフロイトにおいて性行為の成就を暗示する。父親殺し。男性器としてのナイフ。尖ったもの。傷つけるもの。メロディラインは、Travis Scottの「Lose」及びそれを同様に借用したdodoの「Swangin' Like That」からそのまま借りている。

「I be on the way to the hades gate」当時、テートでフランシス・ベーコンのトリプティク1974-1977をみた。彼自身の若いゲイの恋人が死んだ時に描かれたもので、恋人の肉体は形象をとりとめなく破壊されながら、海に向かって突き出た廊下に立っている立方体の闇に吸い込まれていた。両側には時間の重力に耐えているかのように準-抽象化された椅子があり、なにか£サインの描かれたレシートのようなものがキャンバスに直接転写されていた。40分くらいそこで立ち尽くして見ていた。

くすくす笑いで始まる過去の曲とは対照的に、渇いた息が漏れるような笑いと、絶句する吐息でこの歌は終わる。

昔から、「自分」が無い状態に興味がある。かつては痛みから逃げる必要においてそれを欲していたのだろうが、今は別の理由で同じことを考えている。「自分を表現する」代わりに、すべて象徴と引用のゴミの山で自分を埋め尽くす。それこそを「自分」だと捉える。意図はない。ただそう激しく感じるからそうする。その時に、真に自分が感じていることへもっともリアルな形で近づくのを感じる。その膨大なゴミの山のなかで息をしている限りなくゼロに近い自分を、最もはっきりと強く感覚する。なぜかその時にいつも涙が出る。






















Comments

  1. p.s. この時期の曲に頻出するギターというモチーフが、例外なく全て男性器への引喩を意図して書かれたものだということを今一度強調したい。だから「きみのギター」は友達への恋愛感情と一直線に同義なのであり、同時にそう歌われている時、画面には必ず拳銃か、花火か、金属バットが──攻撃的な垂直性の記号が映る。自分がギターの巧い男の子に限って恋心を抱きがちだったことが直接ここに反映していることは疑いようがない。それは日本語の音楽がしばしば表現する、無自覚で幼稚な、また殆どの場合は一方向に異性愛的で暴力的な表現への、ごく個人的な意趣返しのつもりだった。

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