Angel (2018-19)

恐らくリファレンスが数十以上ある曲を書いたのはこの時が初めてだった。2018年のどこかで精神の平衡が完璧に外れた日があり、最悪のピークが過ぎ去った時間に「それ」を視て、経験したのだった。当然、なにも摂取してなどいない。その当時の段階では自分は長らくしらふであったし、もしなにかを摂取してそれを経験したのであれば、そのイメージをここまで信じたりなどしなかった。ただ、それが夜明けであったのか夕方であったのかはどうしても思い出せないし、その前後、数週間の記憶もきれいに欠落している。


それはいずれにせよ「全長が数万キロメートルある、大質量で透明の何か」が成層圏から垂直に、「自分に向かって最高速度で自由落下してくる」経験だった。それは非常にはっきりとしていて、しかも完全だった。このような意識状態での認識は既に感覚以上のものであり、その点においてはこれを経験として判断するほかない種の出来事だった。


ここに書くことの殆どは誰かに話したことがない。


2018年当時、ポップソングを書くことと、その背景にあるはずの信仰体系との連関を掴むことに必死だった。結論から言えば、それは度を超して困難だったし、妥当なことに友人たちにさえ全く理解されえなかった。しかし、ポップミュージックの全てが、ブラック・ゴスペルやアイリッシュ・トラッドといった異なる信仰の偶発的な聖像衝突から産まれた現象であることを鑑みても、それを避けて通ることはどうしても嫌だった。文化は、信仰という人類の不可解な営為の副産物なのだから。


そして恐らく、ポップミュージックから信仰の問題を全て完全に追放したのはわれわれ日本人だけだった。ロラン・バルトに倣って、無作為に選んだ標準的なJ-ポップのリリックに神話構造分析を適用してみればわかる。そこには聖像の残骸が静かに──私たちの中途半端で曖昧な情緒と、幼児的な自己受容のレトリックを可能にしている。そして、天使という記号であれ、「救い」「祈り」といった比較的便利な表現であれ、その殆どは輸入された商品記号のn次的な用法に留まっている。


記号は、神話の二次的な構成要素である。ある神話の外においては、記号は機能しない。それは死ぬ。バルトは「神話とは、語り口である」と言った。彼が神話の実例として真っ先に取り上げたのがハリウッド映画、プロレスのゲーム、選挙ポスターや旅行代理店の広告であったことは、ポピュラーカルチャーから外交戦略に至るまでその内奥一神教の信仰体系との相似形が潜んでいることを描写してみせた点で先駆的だった。


正確には、ある既存の記号1をシニフィアンとして二次的に成立する記号2、つまり『一つの言語(language)の下の階層にある第二の言語』を指して神話またはメタランゲージと呼ぶ。よって必ずしも神的存在についての分析を対象としない


確たる理由もなく弄ばれた記号はインスピレーションを与える能力を失う。それは不能の記号であり、責任は書き手にある。


曖昧な象徴はそれ自体死に、かつ殺す。


もっと単純な言い方もできる。天使に耳を傾けることなくそれについて語ることは恐らくすべきでない。


不可能なものは、いつも混乱した道筋を通して明晰さを要求する。遠い呼び声に耳を傾けることなくその後光のみを都合よく借りようとすることは、無駄だ。


それは、永い時間──ひょっとすると自分が産まれるよりも前からある、ずっと拭えない疑念の問題だ。幸いなことに、今の極めて若い世代の方がそうした感覚に対してずっとダイレクトで意識的なアプローチを取っている。これは本当にいくら強調しても足りない。その点で言えば、我々の後期ミレニアル世代は誇張抜きで最低だった。


Angelの表題の背景には、冒頭に書いた個人的体験に加えて、そのことについて思索する過程で必要に従って探し当てた(または出現した)複数の記号/象徴とイメージとがそこに憑在している。


イスラムの天使/ファルージャの戦闘記録


ムハンマドは、巨大な天使の「筆を執って書きはじめよ」という命令に恐怖を感じて逃げ出した。この逸話からわかることがあるとすれば、天使は書けと命ずるものなのだ。何を?神の言葉を、人には知覚できない言語を、である。たしかこれは『切り取れ、あの祈る手を』で読んだ。また当時の恋人がクルアーンを読むクラスを取っていたこと(彼女が勧めてくれた山内志朗の『天使の記号学』と、以前から読んでいたマルコム・ゴドウィンの『天使の世界』)も影響している。


当時観た、Rabih MroueのPixelated Revolution (2012)の影響もある。史上初めてFacebookを介した革命であるアラブの春について、Rabihはその匿名のデジタル・イメージの偏在は全てドグマ'95の純潔の誓いに沿った「映画」に分類できるという極めて侵犯的な主張をした。ドグマとは「フィルムに映っていることはそこで実際に起きたことでなければならない」という戒律を掲げた、いわばシネマ・ヴェリテの狂ったタフガキである。匿名の低画質なヴィデオ・イメージがWeb 2.0を通して中東の歴史に直接参画するというアイデア(しかもそれは恐ろしい失敗だった)、「常に私たちの死を視ている眼」としてのライヴストリーミングという解釈は、どこか超越的な存在を思わせる。


一方で、米軍がファルージャに無差別爆撃を仕掛けた時、その上空でみていたのは何者だったのだろうか。橋の欄干に磔にされた若い米国人の傭兵の魂を迎えに来たのは、一体どちらの一神教の天使だったのだろうか?米海兵隊の理念とレゾンデートルを定義するドキュメントに、なぜ「God」という語が頻出するのか。UKに住んでいた頃、ISのテロと3回ほどニアミスした。突発的な暴力の可能性が西側で顕在化する時代。国家が例外状態に突入するその瞬間、どちらの天使が私たちを見ていたのか。それとも、それはどちらともなく同じ天使だったのだろうか。



ジョージ・フレデリック・ワッツの天使


G・F・ワッツ(1817-1904)は、ヴィクトリア朝時代の象徴主義画家だ。この絵に限って言えば、その殆ど淫乱とさえ言える、画面全体が強く滲むほどの激しい光の前傾化が、後の印象派と主体的経験へのふしだらで冷たい認識論的移行とを偶然的に捉えている。この天使は、世界を記述し、記録するために存在する。


一方でこの作品を見て抱く驚きとは、まさにそうした理知的な仕事に従事すべき他ならぬ天使その人が、性的な絶頂に達しているとしか思えない姿を取っている点だ。その様相は常軌を逸している。書を開いたまま恍惚でのけぞり、その顔と表情はもはや見えず、周囲の光がすべて粒子の単位で呼応するように激しく震えている。この天使は、一体どんな言語で何を記録してそのようなオーガズムに至っているのだろうか?


Spotifyのプレイリストのタイトルはこの絵に由来する。



Burial/Goldieの天使(Archangel, Angel)


抱いていて

孤絶させないで、ひとりにしないで、ひとりにしないで

ひとりにしないで

愛撫していて

口づけて

あなたはここにいるとわたしに囁いて


天使

私の魂の──

そばにいて

そばにいて

私を離さないで


人種の不明瞭な、出自不明の天使が出現する。コンクリートの高層プロジェクト群の屋上──そこに無許可で設置された大量のアンテナから、ロンドン全域に放送される海賊ラジオの電磁帯をすり抜けるかのようにそれは遊弋している。


Burialの言葉を借りれば、「ロンドンにはあの、口に出して言おうとすると消えてしまう感覚が、なにかダークなものにもなりうる感覚が」そこにはある。これはロンドンで、UKで生活したことのある人が恐らくどこかで強く感じることだが、あの場所、イングランドには常に匿名の天使が偏在している。それは決まって夜に、牡蠣殻と濡れたおがくずにまみれた床の数千メートル上空に。地下鉄に。金融街に、Co-opの裏口に。深夜のマクドナルドに。ストリッパーが疲れ果てて座り込むダブルデッカーの二階に。それは常にわたしといる。また敢えて冒涜的な言い方をすれば、それはロンドンに張り巡らされたCCTVの視点に酷似している。


そして、Hypersoulというターム。Hyperdubがかつてインターネット・マガジンだった頃、2000年代初頭に掲載されたとあるコラムのタイトルである。記事の主張は、Destiny's ChildやTLC、またUKの2ステップやスピード・ガラージュはもはやソウル・ミュージックの伝統から精神的な本質とその神学的な価値体系を棄却し、それを凶暴なまでに消費文明のリビドーに置き換えながら、尚且つその伝統の延長線上に全く異形化したソウルを継続している、というものだった。したがって、「もはやオリジナルとの関係は完全に失われているにも関わらず、それを事実として認めながら異化した現実性の方を現実として選択する」というボードリヤールによるハイパーリアリティの原義に倣ってハイパー・ソウルというわけだ。


(この点ではハイパー・ポップという造語は定義として怪しい。ポップミュージック自体そもそもアメリカという巨大なハイパーリアリティの産物なのだから。)


そして、Hyperdubというレーベルの名はこの意味においてこそ初めて、その真に革新的な側面を一挙に露わにする。Dubstep(Dub + 2 Step)は明らかにHyperdubだったし、レーベル自身が強く主張していたようにBurialとKleinはまさしく純粋なHypersoulだった。ヴァナキュラーな文化(ジャマイカや南アフリカ)がその自己同一性や文脈を外部からの影響によって殆ど失いながら、まさにその外部へ──大都市の文化の中心へ向かって逆向きに侵食してゆく性質 を初めて自覚的に強く押し進めたという点で、彼らは内側からキメラ化してゆくヨーロッパを先見し、美しい形で体現していた。異形としての第三勢力によって文化の遺伝子が突然変異を起こす。こうした全く新しい考え方は、当時の自分にとっては本当に重要な、ある種のGoサインのようなものだった。


私は、母が若い頃に西海岸の教会で習った黒人霊歌の子守唄と、その母がくれたLauryn HillやSadeのCDで育った。その意味では、自分は常に内面から外面に至るまでここでは全くの部外者だった。10代から20代の終わりまで一貫していた大きな疑問とは、私の音楽とは何なのか、ということだった。現代のポップミュージックに限って言えば、本当の意味で私たちが創出したものは殆ど何ひとつ無いからだ。それはいつでも輸入商品だった。そして、創るということになると当然、殆どの選択肢が既にそうであるように稚拙な文化盗用でしかなかった。当時、ポストBLM・EU離脱の最中にあったUKでは既に、文化の盗用についての肌感覚は以前より緊張感を要する話題だった。しかし、もしある人が本質的なルーツから全て切り離されても、その向こう側まで、良かれ悪しかれ未踏のどこかに達するまで異形化してゆくことの方がむしろ本質となるような方法、非人間的かつデジタル(離散的)な形式を通じて悲しみを表現すること、それだったらわたしにはその権利がある、と思った。それは一般に自己同一性とされている何かを完璧に破壊することだったのかもしれない。しかも、前述の体験によって既にその大部分は完了していた。


それは初めて、自分が何かを作ることに不可欠なはっきりとした歴史性を、どの世界に忠実であるべきなのかを明確に把握した瞬間だった。


未だ記述されていない世界の、未だお互いを知らぬ私たちのネットワーク。私たちはいつの日かひとつになるだろう。それが書き残されなかったとしても、一向に構わない。


毎日、バスの中でBabyfatherと初期のグライムを聴いていた。Shygirlのパーティに行ったとき、初めてじぶんはここにずっといたいと感じた。ポリカーボンの反射材でできたレイヴパンツが、ウーファーからのローエンドを浴びてはためく。ストイックな音響設計のクラブはそのどこにいても音が高解像度に、かつゼロ距離に感じられる。音量が大きくなるほどiが消えてゆく。リビドーが個の限界を超越して闇のなかでフロアを呑み込んで行く。そこにはすべての人種が一緒にいて、すべての多層性愛が同時的に起こっていなければならない。法を超越したあらゆる取引がそこで起こる。ストロボが、闇で踊るシルエットをCo2のスモークもろとも数千回切り刻んではそのひとつひとつを即時的な静止画にする。スキンヘッドのカップルが、ドッペルゲンガーの精霊に視える。それはSupersawのゲートパターンと、パルス状のReese Bassと、天井のレーザーと、完璧に呼応している。みんな歓喜の絶叫を挙げている。微かに低く感じるウィードの残り香を別にすれば、空気は極めて澄んでいる。



Roy NnawuchiとMica LeviのInna(2017)。ヘネシーとCo2スモークマシン。模造の都市と聖母像を見下ろす、自己破壊に取り憑かれた、わたしたちと同じ有色人種の天使。


LPLは、彼のHype Williamsの状況主義的アプローチを強く意識して初めたプロジェクトだった。



同時期に、写真術のクラスで期末に提出した作品集のタイトルは『The Endless Extension of The Area of Struggle』(終わりのない闘争領域の拡大)だった。UKはEU離脱論を経て既に、自分が来たときとは別の場所に変容しつつあった。韓国人の同級生は数人の白人にワインボトルで頭を割られて国に帰った。新しい不寛容が低く響きながら近づいてきているのは明らかだった。写真はすべて外を歩きながら無許可で撮った。手紙を燃やしているホームレスと向こうからパトカーを降りてこちらにやって来る2人の警官の並置、婦人警官の歯を剥いた笑顔、地下鉄の下降するエスカレーターと人々の表情、パリのテロ直後のCDG空港の不気味なトランジット空間、手を繋ぐクラストパンクのカップルとハート型をしたホームレス除け……。CCTVのライトモチーフの繰り返しになるが、「カメラという歴史の天使」のテーゼは20世紀初頭、共産圏の映像理論で散見される。それはルーマニアの暴力革命とSONYのハンディカムに結実する。やはりその特質は、冷たく記録することと不干渉、無記名性、そして監視にあると思う。


Andrei Ujica, Harun Farocki - Videograms of Revolution (1989) 


いつも、CCTVや民生用のDVがなんの色付けもせず認識を介在することに底知れない魅力を感じる。しかも、なんの色付けもないということさえそこでは認識論的な誤謬で、客観的現実という成立不能なブラックホールだけがそこにある。


"TV's got the angles, Hades got the angels"

TVが完璧に画角を捉える、死の世界に天使が集結する。


そしてこれは個人的な確信なのだが、ベンヤミンはクレーの天使に限って間違っている。歴史の天使は涙など流してはいない。歴史的時間の「風」によって人類への干渉を阻まれているのでもない。受難に心を痛める神、という観念に、むしろ救いがたく一方的で嗜虐的な人間の卑しさを感じるのはわたしだけだろうか。そうした解釈は潜在的にナルシスティックで、自己憐憫のパフォーマンスは誰をも真の意味では救わない。


天使と個別の人間は、恐らく殆ど何の関係もない。それは通り過ぎるもの。ペソアの「わたしという舞台の上を数多くの役者たちが通り過ぎてゆく」を今でも思う。天使を目撃したことがあるというヴァチカンの司教が、「それは、ヒトの形をしておらず、強いて言えばガラスのコップを透過する光に似ていました」という発言を公式に残しているそうだが、これは印象を極めて的確に捉えている。その言葉は、長く心の支えとなった。


音楽内容の面ではほとんどがSpotifyのリファレンス・プレイリストに引用元が列挙してある。あれに入っていないのは、James BlakeのModern Soulだ。後半の乱暴なモーダルインターチェンジはそれを参考にした。


それとJames FerraroのNYC, Hell 3:00 AM。実在する地獄としての大都市。


コードは夏の終わりに六本木で考えついた。それは深夜にチャラ箱から出てくる女の子たちの死んだ瞳が印象的な夏だった。そこには強く共感すべき何かがあった。録音は全てUKに帰って、先述の内的体験が起こってからしばらくしてAbetonで録音してLogic Proでミックスした。背景で微かにAbletonのストックプラグインのプリセットが4分刻みで鳴っている。ピアノは垂直に四度を折り重ねて背景でサブリミナルに微睡んでいる。逆方向に弾いて逆再生された録音はエコーを通過して複数のレベルで時間の非可逆的な性質を亡き者にする。歌は数十トラック多重録音している。LogicのVarispeedを乱用して複数の速度で録音された数多の声は今ではすっかりメインストリームになった表現だ。先述のBurialのインタビューと、当時Resident AdvisorでNikesの高くピッチアップされたFrankの声が「象徴レベルで性別以前的な子どもとしての天使の声」と評されていたのを読んだことは強く働きかけている。Auto Tune EFX 3とHarmony Engine EVOがそこかしこに使われている。T-Painのようなアイコニックで不自然なピッチシフトは32/64bit時代のEFXの方が音が良かったのを覚えている。同時に、全く無加工のファルセットも混ざっている。こうした局面ではいつでも逆説的なアプローチが有効になる。敢えて2025年に改めて強調したいが、声を変調し、声という最も個人的なプロパティから特定可能な音質を奪い去ることは、象徴的な段階でアイデンティティを破壊することに他ならない。その究極にポストモダンな形がボカロであること、また多くのトラップやドリルで声に対する熾烈なプロセスを重ねることと彼らのドラッグを通した自我の死は、決して偶然ではない。


Honda Sound WorksIsoというエフェクターの音が冒頭で鳴る。それはSatisfactionのイントロのギタートーンを再現する目的で製作されたペダルなのだが、そもそもあのリフは後で金管アレンジに差し替えるつもりで録音されたのだったという。歴史上初めて録音された、極端に歪むあのギターの音はホーンセクションのミメーシスだったのだ。

黙示録の天使たちがラッパを吹くとき世界は終わる。この歌の製作進行中の仮タイトルはHades。それは死体を投げ入れるための冥界の穴。


ひとつの叫びが空を引き裂いてここに来る──かつてにもあった、でもこれとは比べようもない。もうとっくに手遅れ。避難民は足を早めるけど、すべては劇場。


飛べないものが飛ぶとき残された可能性は墜落だけ。


自我の一時的な完全消失、強制的なイドの全景化と、その後に来る自己ではない大質量の何か。それはコップの中にいきなり大量の水を注ぎ込むとき、元からあった水がすべて流出してしまうことにとても似ている。



冒頭に書いた体験の描写が、この8年近く一字一句変わらないセンテンスのままで常に頭のどこかをやり場なく回転している。そしてそれが実際には何も言い表せていない事に、本当に疲れた。誰がどう思おうと知ったことではない。誰のことばもその事実性には何も影響しないからだ。それは、自己表現でどうにかなる段階のことではない。


沖縄や東北では、神憑きに遭った若い女性は数年間その精神状態のまま彷徨い続けるらしい。わたしの血筋には田舎の神職や、そうした性質を持つ人が多いのでたしかに珍しくは感じない。このテクストを書いて初めて、わたしはどこかで無意識的に共感をもって自らをそのように解釈しているのだと気付いた。


それは言い訳だろうか


わたしがなんらかの明晰さや冷たく確かな論理の一筋のみを求めること、それに固執することによってむしろ極端に非理性的になってゆくこと、のどれもは恐らく事後反応のようなものでしかないのかもしれない


そう言えばむかし 円山町のdjバーで、師匠になにか演奏をしてよと言われ、友達のギターでこの歌を歌った 彼は本当に素晴らしいとき以外とても冷淡なのだけど、そのときは「とってもいい歌だね、でも練習したらもっとよくなるよ」と笑顔で言ってくれた その人の歌がなかったらわたしは生きていないし、歌も書かなかったし、祈ることも知らなかったから、嬉しく思った 今でも、じぶんは彼に言われた練習をずっとしているのだと心に決めている 例えそれがもはや何にも似つかなくなったとしても


当時より自分は明晰になっているか、もしくは手のつけようがない段階へ着実に至っていっているかのどちらかだろう いつか誰か、自分よりずっと若い何者かが、ここに書いてある恐ろしく愚劣で無意味なやり方より必ずもっと巧くやりおおせてくれるのを、わたしは知っている。






この映像は、すべてアートワークも撮ったKoya Kobayashiの手で撮影されたもので、パフォーマンスは吉開菜央さん。2019年に製作されて未完成のままだった。それをじぶんがごく私的に編集した。ここにそっと置いておきたいと思う。


































P.s.1

折角だから2017年にやっていたアブジェクシオンというone-offのバンドも紹介したい。

https://abjectiontapes.bandcamp.com/album/abjection

UnwoundのSwanを乱暴に脱構築して前述の子と録音したのだが、正直今でもかなり気に入っている。やりたかったバンドというのが地獄のような音なのはかなり笑えるオチでもある。欲を言えばSpazzとかConcrete Octopusみたいな音がやりたかった。バンド名は先の親友がつけてくれたもので、この時まだクリステヴァは未読だった。アートワークは突発性難聴になった時の診断書とガス代のコラージュで、案の定価格設定はGBPで最大値、bandcampからmp3を違法に吸い出すためのサイトとPornhubのURL(削除されたが、ウィードを吸いながらNikesを聴いて、涙ぐみながら   をしている美形の青年のビデオだった)が貼ってある。


P.s.2

以前Twitterで誰かが「LPLはツェランの系譜に自覚的だったと思う」と言っておられたのを見かけて、ふいに居ても立っても居られず『死のフーガ』の初版本を買い直したら『田村隆一様へ 1973 9月 鎌倉』と書かれた和紙が挟んであった。とても系譜などとは烏滸がましいけど、少なくともただならぬ影響を受けてきたから、自分が時の呼び声に従って一本の線の上を導かれてきたように感じました。それはちょっとした奇跡で、あなたのおかげです。本当にありがとう。


Comments

Popular posts from this blog

LOWPOPLTD. - Ultra セルフライナーノーツ